ボードゥインは1820年6月20日オランダのドルドレヒトに誕生しました。
そのフルネームは、Antonius Franciscus Baudouin(アントニウス・フランシスカス・ボードウィン)といいます。

ボードウィンの誕生日について従来1822年6月20日と信じられていましたが彼の戸籍から1820年6月20日が正しい生年月日です。

さて、ボードウィンは1839年ウトレヒト大学医学部に入学登録し、同年8月ウトレヒト陸軍軍医学校へも入学、4年後に後者を卒業しました。
そして、1843年8月オランダ陸軍に入隊三等軍医になりました。
1843年12月からグロニンゲン大学で研究を開始、1845年6月には「上顎切除に関する研究」で学位を授与され、1847年11月30日には二等軍医に昇格し、1847年から1862年まで、ウトレヒト陸軍医学校の教授に就任しました。

▲生徒に囲まれるボードウィン博士

ボードウィンはウトレヒト大学の超大物教授F・Cドンデルスによく指導を受け、眼科、生理学に精通していきます。そして1851年にはドンデルスと共に「生理学」の教科書を執筆。1852年には単独で外科の本を、1859年には眼科の本を翻訳して出版しました。
この間にボードウィンは陸軍軍医学校で、その後来日して日本の医学校で働いたポンペ、ハラタマ、メーエル、スロイス、ヨング、レーウェン、プッケマ、ロイトル(生年順)を教えています。

日本には1862年(文久2年)にポンペの後任として渡来、長崎養生所、精得館で日本人学生にオランダ医学を教えると共に診療も行いました。

1863年(慶応3年)ボードウィンは江戸に本格的な蘭医学系の医学校を創設契約を幕府と結び、さらに日本人医学生(緒方惟準、松本_太郎)のオランダ留学を計画し、幕府と交渉、許可を受けます。

そして彼は、江戸の医学校開設準備と日本人学生の留学援助の目的でオランダへ帰り、緒方惟準、松本_太郎の両名をウトレヒト陸軍医学校に入学させます。
医学の新知識・新技術を身に付け、医療器具類を整えて日本に送り、1868年(慶応4年)に再来日してみると、日本は戊辰戦争の最中で、政権は事実上新政府に移り、幕府は崩壊していました。

ボードウィンの立場は宙に浮いてしまった状態でした。

そのような状況下、緒方、松本の2人も予定をくり上げて帰国、緒方は大阪の仮病院の院長として就職。ボードウィンは明治2年(1869)2月ここに就職しました。

しかし、明治新政府は明治3年(1870)2月ドイツ医学の採用を決定してしまい、オランダ医学継続の望みは消えてしまいました。6月にボードウィンは帰国を決め、荷物や書籍をすべてオランダへ送り返しました。

ところが、東京の医科大学、大学東校へのドイツの医学教師の派遣が普仏戦争のため遅れ、大学の講義に穴があくこととなったためボードウィンにむりをいって3ヵ月間大学東校で講義をしました。

この時、戊辰戦争で荒廃した徳川家の菩提寺上野寛永寺の境内に、大学付属病院の建設計画を聞かされたボードウィンは、すぐれた自然が失われるのを惜しんで、政府に公園づくりを提言。これがもとで、日本最初の「上野公園」が誕生することとなりました。

▲小石川植物園での送別会

明治3年閏10月末、ボードウィンの送別会が小石川植物園で開かれ、日本政府から一時金として3000両をもらい日本を去りました。
この退職金は、当時の外国人医師の退職金の相場の数倍という巨額であったといいます。

離日後ボードウィンは世界旅行を楽しみ、1873年3月16日、オランダ陸軍に復職。3月23日には一等軍医正に昇格。1880年8月には軍医大尉に昇格し、1884年3月20日に退役。1885年ハーグにて没。享年64歳。生涯独身を通しました。

▲明治天皇の勅語

明治天皇はボードウィンに、明治3年閏10月十五日「汝久シク我国ニ在テ 善ク生徒ヲ教授シ医学ヲシテ進歩セシム 朕(ちん)深ク之ヲ嘉(よ)ミス」という勅語を贈られています。




                   (参考・昭和59年日本医事新報石田純郎先生論文)

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