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昨年上野公園にあったボードイン博士の胸像が建て替えられました。この建て替えについて、新見公立短大教授・石田純郎先生が「時空の旅・上野公園のボードイン像を巡って」という論文を、映画のシナリオ風に、日時を明記して、シーン別にお書きになりました。先生のお許しを得てその内容を紹介します。
台風崩れの低気圧による嵐が東日本を襲い、漁船の転覆や高山での遭難が相次いだ2006(平成18)年10月6日午前11時に、上野公園で、蘭医ボードインの銅像の除幕式が行われた。横殴りの豪雨の中、竹の台噴水池西の茂みの ![]() 6日正午から上野公園内の精養軒で、祝宴が開かれた。山本信行住職の司会で、約80名が参集した。その半数は法性寺の檀家の人々、それ以外に、東京のオランダ大使館関係者、日蘭学会関係者、大阪の代議士、東京都公園管理課吏員、銅像の作家、工事関係者、上野商店街・観光連盟の関係者らが集まった。このパーティーには、なぜか人気抜群の関取、高見盛まで同席した。 ![]()
![]() 完成した銅像は、この年の夏にオランダから日本へ空輸され、上野公園の大噴水(竹の台噴水池)西の茂みの中に設置された。 10月5日午前10時から美濃部亮吉東京都知事、オランダ大使T.P.ベルグスマ氏、オランダ大使館文化部X氏や見学者300名の中で、除幕式が挙行された。
筆者は1970年の医学部在学中から医学の歴史の調査を開始していた。最初に1870(明治3)年に母校岡山大学医学部の前身、岡山藩医学館が開校した際に教鞭を執ったロイトルの調査を開始した。やがてロイトルはボードインの甥であることが判明した。その後ボードインについても研究を始め、現地調査のため頻繁にオランダを訪れるようになった。1983(昭和58)年頃になると、オランダ人研究者の知り合いも出来た。ライデン大学医史学準教授ボイケルス教授や、ロッテルダム大学眼科学ヘンケス教授などである。ヘンケス教授はボードインの子孫と知り合いでありその家でボードインの持ち帰った日本の美術品の600点のリストと現存する20点、日本の古地図10点、錦絵200点、1862−70年の日本の古写真200枚などを見付けた。 これ以外に公文書館の史料より、戸籍や系図を見いだし、図書館より著書なども入手した。 日本の宝物を包んでいたぼろぼろの大きな和紙に日本語が書かれていた。「汝久ク我国ニ在テ善ク生徒ヲ教授シ医学ヲシテ進歩セシム朕深ク之ヲ嘉ミス」、「朕」だから、これは明らかに明治天皇のボードインへの礼状である。 戦後の民主教育を受けた筆者であるが、礼状を反故にしていたのには、さすがに腹がたった。「これを何と心得るのか、日本の王様の礼状なるぞ。戦前であったら、腹切りものであるぞ。ここにある宝物のうちで、最も貴重なものである」と、子孫を叱っておいた。 ボードインの収集した日本の古写真の中には、ボードイン自身の写真もあり、それを見ると、上野公園のボードインの銅像の顔が、何となくおかしいと感じることもあった。しかし銅像はきちんと調査されて、きちんと作られたはずであるから、間違いようがないと思っていた。 1984年3月の調査で、ヘンケス教授から次のようなことを聞いた。「銅像を作るとき、子孫が誤って弟の写真を彫刻家に渡した」と。 子孫は医師のボードインの顔を知らず、同時期に日本に居住していた商人の恰幅の良い弟を医師と思い込んで、彫刻家に渡してしまった。 ![]() 弟のボードインは恰幅が良く、頭が禿げ、長い顎鬚がある。兄は痩せている。上野公園の銅像は明らかに弟の顔である。33年前に建立されたボードイン像が人違いであることは、こうして22年前に筆者によって明らかになった。 さっそくこの事実をまとめ、『日本医事新報』3148号(1984年8月25日刊)に「間違われたボードイン」と題して発表した。また朝日新聞にも発表し、大きく取扱われた。するとライデン大学日本学科の卒業生で流暢な日本語を話すオランダ大使館文化部のX氏から、「朝日新聞に公表するとはけしからん」との電話があった。「上野の人たちの金で間違った銅像を作って、けしからんのはどっちだ」と応酬した。
最初に上野公園に建てられた銅像の顔の弟Albertus Johannes Bauduin(1829-1890)が、1858年に医師の兄より先に来日し、長崎でオランダ貿易会社員として勤務していた。 長崎ではオランダ軍医ポンペが、第二次オランダ海軍伝習隊の一員として来日し、1857年からたった一人で日本最初の近代的・系統的な医学教育を,現在の長崎大学医学部の前身校で5年間にわたって実施した。 1862年ポンペの帰国に当り幕府は後任を募集した。ポンペは自分の恩師ボードインを推薦し、また弟も兄に勧誘の手紙を書いた。 「兄さん、兄さんの年収は2,200ギルダーで、活に僅かな余裕があるだけでしょう。今後昇給しても、せいぜい3,000ギルダー止まりで、55歳の定年後の年金額は1,500ギルダーでしょう。日本へ3年間来るだけで、一財産築き上げることが出来ます。」高い給料が医師ボードインにとって、大きな魅力だった。 この手紙はオランダ・ハーグの国立中央公文書館に保存されている。それに応じ、兄のAntonius Franciscus Bauduinは来日した。 兄のボードインは1820年6月20日にドルドレヒトで生まれた。1839年にウトレヒト陸軍軍医学校に入学し、医学を学び4年後に卒業した。卒業後、オランダ陸軍に入隊、三等軍医となった。同時に研究のため、グロニンゲン大学に入学し、2年後に「上顎切除に関する研究」で学位を取得した。 1847年に二等軍医に昇格し、同時に母校、ウトレヒト陸軍軍医学校の教官となった。 19世紀半ばの当時、大学の医学部はまだ中世的な特徴を残し、効率的な医学教育が出来ていなかつた。18世紀末まではヨーロツパでは、外科は医学の中に入らず、職人が扱う技術で、外科医はギルドを形成した職人であった。 軍医学校がすべての医育機関の中で最初に外科を医学の一部と認め、内科と外科を公平に教えた医育機関である。 フランス、プロシア、オーストリア、オランダなどで、1800年からの10年間に開校し、60−70年間設置された。 その教育方法が大学医学部に取り入れられ、使命を終えて、いずれも19世紀の後半に廃校となった。 ボードインは陸軍軍医学校用の生理学教科書をウトレヒト大学教授で生理学・眼科学の権威ドンデルスと共に執筆、これとは別に外科手術の本も翻訳、眼科器具使用法の本も執筆し、また軍医学校で外科学、生理学、眼科学を教えた。 1862年10月末に長崎へ到着したボードインは、1866年秋までの3年間半、長崎の医学校で医学の講義と患者の診察を行なった。1865年には分析窮理所という物理学・化学の実験所を設置し、ウトレヒト陸軍軍医学校のかつての同僚ハラタマを招いた。 1866年8月にボードインは江戸に行き、江戸にオランダ系の医学校を設置する契約を幕府と結んだ。1867年春に緒方惟準、松本_太郎と共にオランダに帰国し、二人をウトレヒト陸軍軍医学校に入学させた。ボードインは小児科、産婦人科についてロンドンで研修した。 その間、江戸幕府は崩壊し、明治政府が成立した。そのニュースを聞いて諸方、松本の両名はあわてて帰国。 一方、ボードインの再来日は遅れ,1869(明治2)年1月になった。 明治政府はボードインを大阪の仮病院(現大阪大学医学部)で働かせた。この間、暴漢に襲われた大村益次郎の右大腿部切断を1869年10月27日に行なったが、大村は11月5日に没した。1870(明治3)年2月には大村の遺言で発足した大阪の軍事病院と軍医学校で、ボードインは働いた。 なお、弟のボードインは1867年に神戸に来て、オランダ領事も兼任していた。 明治政府は1869年、ドイツからの医学の受容を決めた。 オランダ医学継承の望みが断たれ、ボードインは帰国することとし、荷物・書物をすべて送り返し、横浜に転居していた弟の元に1870年6月から滞在していた。 大学東校(現東京大学医学部)ではドイツ人教師の採用を決め、プロシアより二人のドイツ人教師(軍医)が来日することになっていたが、折からの晋仏戦争で着任が遅れた。生徒が外国人教師の不在を不満として騒いだので、横浜にいたボードインに頼み込み、9月から閏10月までの3力月間、大学東校で医学講義をしてもらった。 その際に、上野公園についての逸話が生まれた。 閏10月末に小石川薬園(現植物園)で送別会が開かれ、天皇は金3,000両の退職金―当時の外国人医学教師中で破格の額―と先に書いた礼状をボードインに贈った。 同年末、医師のボードインは帰国した。弟は1874年に帰国した。 医師ボードインは江戸にオランダ系医学校の設立を計画していたため、彼の帰国後も続々とウトレヒト陸軍軍医学校時代の教え子を中心にオランダ医が来日し、各地のオランダ系の医学校で教えた。 1880年頃までに合計14名のオランダ医が来日し、医学校教師を務めたがその内10名が、ウトレヒト陸軍軍医学校の卒業生であった。 明治初期は医学校ブームに湧き、全国で60もの医学校が作られた。医師過剰を恐れた明治政府は、1887(明治20)年に地方税でもって病院・医学校を維持してはいけないという法律を作り、多くの医学校が廃校に追い込まれた その際、かつてオランダ医が教鞭を執った学校だけは、政府が国立に移管し廃校から逃れた。それらの学校が大正年間に地方の官立医科大学に昇格した。すなわち、長崎、熊本、岡山、京都府立、金沢、新潟の医学校である。 ウトレヒト陸軍軍医学校は、内科と共に外科も重視した革新の医学カリキュラムの学校であったが、医学は何かを考える医学哲学、医学倫理、医学史の講義や研究をする者はいなかった。日本の大学医学部は、その点まで模倣したため、医学哲学、医学倫理、医学史の講座は大学の中に制度化されなかった。 こうした点を考えると、その後の日本の医学教育に及ばしたボードインの影響は大きい、地方の中心的な大学医学部は、そのほとんどが、かつてオランダ医が教鞭を執った学校である。なお銅像にはボードインは、現在的な発音で「ボードワン」と表記されていることを付記する。 【参考文献】 石田純郎著『江戸のオランダ医』1988年、三省堂 石田純郎編著『蘭学の背景』1988年、思文閣出版
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