![]() |
![]() ![]() ボードウィンは、1820年オランダのドルトレヒトに生まれグローニング医科大学を卒業し、陸軍医学校の教官をしていましたが、幕末に来日し、長崎で医学生の指導をしていました。 明治2年(1869)大阪仮病院(大阪大学医学部の前身)の開設に伴い抜擢され大阪の地を踏み、大阪仮病院と後から開設する大阪医学校病院で通算2年間、診療と講義を受け持ちました。陸軍創立者の大村益次郎が襲撃された際の主治医となり手術を行いました。 大阪府知事後藤象二郎に公立病院の開設を依頼された緒方惟準(緒方洪庵の次男)は、ボードウィンの身の回りの世話を薩摩屋半兵衛にまかせることにしました。 半兵衛は、オランダ語の会話もできる商人でしたが、熱心な日蓮宗の信者で、法性寺の当時の住職日定の承諾を得て、ボードウィンは法性寺に居住することになりました。 ボードウィンは、生活習慣の違いから豚を寺内で飼育したりして周囲を驚かせることもありましたが、半兵衛の教化を受け、窮屈そうに膝を折り、南無妙法蓮華経のお題目を唱えるようになったといいます。 |
![]() ![]() 平成12年10月29日、お会式の日にボードウィン顕彰碑の除幕式が行われました。除幕式は、阪大名誉教授の芝哲夫先生、オランダ商務領事レイ・ブラウン氏、27代薩摩屋半兵衛氏、大阪府議会議員の八木ひろし先生、大阪市議会議員の新堂庄二先生の他、長崎と大阪でボードウィンに医術の指導を受けられた片山氏のご子孫の方の参加もあり、賑やかに行われました。 ![]() この顕彰碑は、ボードウィンがここに住んだことを紹介する物がない事を寂しく思っていた住職が考案し、法性寺の檀信徒をはじめ多くの方のご協力と募金により建立の夢が実現したものです。 除幕式の前に朝日新聞で紹介され、当日はNHKテレビでも放映されました。 翌年には、大阪市教育委員会文化財保護委員会がボードウィン顕彰碑の横に「ボードウィンゆかりの地」という大阪市の顕彰碑を建てて下さいました。 ![]() また、顕彰碑建立にあたり薩摩屋(川端)半兵衛氏から、「業績を伝えるのに役立てて」とボードウィンから川端家に贈られていたガラス製の砂糖入れを法性寺に贈っていただきました。 |
トップへもどる |