常 國 寺
大阪市中央区中寺2−2−15

地下鉄谷町九丁目駅から千日前通りを西に歩いて、はじめての筋を北にまがると、常國寺があります。

このお寺には、小説「檸檬」で知られる梶井基次郎のお墓があります。
また歌舞伎役者の中村雁治郎のお墓もあります。
梶井 基次郎 (1901〜1932)

 基次郎は明治三十四年、西区土佐堀に生れましたが父が道楽者であっ
たため、幼時の頃から家庭は崩壊していました。
 しかし彼は、北野中学から三高理科に進学し、中谷孝雄を知って文学に開眼しますが生活は貧しく頽廃的(たいはいてき)でした。そして落第二回ののち東大英文科に入学し、中谷孝雄らと同人雑誌「青空」を刊行、不朽の名作となる「檸檬」などを発表しましたが、不規則な生活がたたり、肺結核を患い、大学を中退、伊豆湯河原に転地療養します。この時川端康成を知り、その世話で「蒼穹」など数篇を「文芸都市」等に掲載し、独特の焦燥・倦怠・絶望感と清澄な生命感を織り込んだ作品として一部に注目されました。
 昭和三年頃からプロレタリア思想に動かされ、東京の労働者街に住もうとしますが病状悪化で叶わず、大阪に戻って闘病生活に入り、「交尾」「闇の絵巻」などの好短編を書き、「のんき患者」を絶筆に、32才の生涯を閉じました。墓碑銘「梶井基次郎墓」の字は、生涯の親友中谷孝雄が書いたものです。
〔梶井基次郎墓〕
初代・中村鴈治郎 (1860〜1935)

 鴈治郎の父は名立役の三代目中村翫雀でしたが、破婚のため、母とともに置き去りになりました。わずか三歳でした。呉服の行商などをして生計
を立てますが貧しい生活が続きます。何とか父を見返す役者になろうと筑後芝居に入りますが芽が出ず、生活費にも窮し、貧乏のどん底を味わいました。
 そんな折、実川延若との縁に恵まれ、20才で「五枚続墨画雁金」で主役の雁金文七を熱演、脚光を浴びて17年ぶりで父翫雀と対面します。翫若は自らの非を詫びて、わが子に中村鴈治郎を名のらせ、相続人とします。
 明治中期には、後に仁左衛門を継ぐ片岡我當と関西劇壇の両輪と謳われ、特に近松の世話物は天下一品と評判になりました。
 また、鴈治郎は信仰心も厚く、「日蓮記」上演の折りには、自ら髪を落とし精進潔斎をして聖人役に臨んだといいます。
 墓は、父翫若の墓と並んで建ち、他に、翫若の師匠の四代目中村歌右衛門、二代目林又一郎、新派の俳優秋月桂太郎が当寺に眠っています。
〔玉林院成鴈日扇居士〕