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基次郎は明治三十四年、西区土佐堀に生れましたが父が道楽者であっ たため、幼時の頃から家庭は崩壊していました。 しかし彼は、北野中学から三高理科に進学し、中谷孝雄を知って文学に開眼しますが生活は貧しく頽廃的(たいはいてき)でした。そして落第二 ![]() 昭和三年頃からプロレタリア思想に動かされ、東京の労働者街に住もうとしますが病状悪化で叶わず、大阪に戻って闘病生活に入り、「交尾」「闇の絵巻」などの好短編を書き、「のんき患者」を絶筆に、32才の生涯を閉じました。墓碑銘「梶井基次郎墓」の字は、生涯の親友中谷孝雄が書いたものです。
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鴈治郎の父は名立役の三代目中村翫雀でしたが、破婚のため、母とともに置き去りになりました。わずか三歳でした。呉服の行商などをして生計 を立てますが貧しい生活が続きます。何とか父を見返す役者になろうと筑後芝居に入りますが芽が出ず、生活費にも窮し、貧乏のどん底を味わいました。 そんな折、実川延若との縁に恵まれ、20才で「五枚続墨画雁金」で主 ![]() 明治中期には、後に仁左衛門を継ぐ片岡我當と関西劇壇の両輪と謳われ、特に近松の世話物は天下一品と評判になりました。 また、鴈治郎は信仰心も厚く、「日蓮記」上演の折りには、自ら髪を落とし精進潔斎をして聖人役に臨んだといいます。 墓は、父翫若の墓と並んで建ち、他に、翫若の師匠の四代目中村歌右衛門、二代目林又一郎、新派の俳優秋月桂太郎が当寺に眠っています。
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